野生の独白

140字では綴れない思いを淡々と

僕が小学生だった頃

人生には周期があるに違いない。
僕にも、そのような周期があるように感じる。
それに対する名付け方は様々であり、その名付け方が半史を定義づける。
歴史が現在に影響を与えるように、人の経験もその生き方に影響を及ぼす。
 
例えば僕の場合は、「優しい時期」と「強い時期」に大きく2分することができる。
 
小学生の頃は比較的弱弱しい子供だったように記憶している。
 
僕は、志士をたくさん輩出した長州藩のお膝元である、山口県萩市に生まれた。
そこに母方の祖母の実家があったからだ。
生後まもなくして、自宅がある福岡県北九州市に戻ってきた。
こちらは九州最北部に位置する工業都市で、既に斜陽の時代を迎えている街だった。
ただでさえ地元愛が育まれやすい福岡という土地柄であるにも関わらず、地理好きの父のもとで育った僕はますます愛郷心の強い人間になってしまった。
別にドヤ顔で改めて述べることでもないが、今でも地元に誇りを持っている。
 
少年期の僕は、クラスの中で勉強のできるいわゆる「いい子」で、先生は面倒を見やすかったに違いない。
好奇心が旺盛であり、自分の意志でそろばん教室に通った。
先生からは「我慢強くて集中力のある子」と評された。正座も平気になった。
それまでは落ち着きのない子供だったが、一つのことに集中する姿勢を身に着けた。
他方、かつてテニスで全国レベルだった父の勧めでサッカーを始めた。
友人とは仲良くやっていたものの、運動神経が壊滅的に悪く、周りからの批判に弱い僕にとっては、まるでダメな経験だった。
「子供を強くする」両親の目論見だったと思うが、却って球技に対するコンプレックスがついてしまった。
運動をしたかったものの、団体競技・球技は嫌だった僕が後程陸上部に入る一番のきっかけはこれだった。
 
日頃は外でもよく遊んだが、どちらかといえば家の中でゲームをする方が楽しかった。
DSのソフトのラインナップは、ポケモン逆転裁判どうぶつの森、FF4、シムシティとバラエティ豊富であった。
特にシムシティが好きなのは、小学生にしてはなかなか変態だろう。
自分の頭の中に理想的な都市があって、それを目指してコツコツ街づくりする感覚がたまらなく楽しかったのだと思う。
何か自分の世界観を構築する、他者には理解しがたい妄想癖は、別の形でも表れた。
例えば学校の係では、いわゆる「体育係」のような人気のあるキラキラした係でなく、学級新聞をこそこそと発行するような役目の方が、創造的で楽しく思えた。
自分が日ごろ考えていることやみんなが好きなことを文章に起こして共感してもらうことが、僕にとっての快感だった。
 
当時は弱かった。友達がいるにはいたが、どちらかといえばいじられる方だったし、球技も弱かったし、喧嘩の時に相手の強い主張を受け入れてしまっていた。よく母から、「もっと主張せんね」と叱られていた。でもその弱さは、おそらく素直さの裏返しであったとも思う。
今でもそうだが、母はよくしゃべる。人と話すこと自体が好きな性格なんだろう。
僕も学校であったことのあれこれをよく話し、母も聞いてくれた。友達が家に来ると、母はよく友達に喋りかけていた。
男らしさの源泉たりうる父は、僕が2年生から5年生の時期まで東京に単身赴任していた。
父と遊ぶと、僕の運動神経の悪さにイライラしていた。
もし自分の運動神経が抜群であれば、息子にもそれを期待するのは自然なことだが、残念なことにその期待は裏切られたのだ。
口下手な父だが、クリスマスや誕生日の日には必ず贈り物をしてくれるような誠実な性格であった。
卑怯なことをすると「ずるはやめろ」とひどく叱られた。泣くと、「男のくせにピーピー泣くな」と更に叱られた。
日頃口を荒ぶることが少ない父だからこそ、なおさら怖かった。
小学生の時分にそんな父ともう少し長い間過ごしていれば違う性格になっていたのかなとも思う。
 
そろばん教室の頃と同じように、僕は地元の国立中学を受けたいと言い張った。
なぜだかは覚えていない。
別に両親は否定せず、受け入れてくれた。
全ての期間ではないが一部の期間だけ塾に通わせてもらったが、結局予復習のサイクルは回せておらず、成績の伸びもいまいちだった。
結果、案の定受験に失敗したが、なぜかあまり悲しくなかった。
結局僕は地元の公立中学に進むことになる。
 
中学に入って以後は、少しずつ強い自分を認識し始めるようになる。